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『魔女誕生』:第三章 『魔女の槌』Malleus Maleficarum による、魔女=女性イメージの確立

1.インノケンティウス8世 Innocentius 8 の教書(1)

1484年12月5日、教皇インノケンティウス8世によって、『限りなき愛情をもって要望する』Summis desirantes という名で知られる教書が公布された。この教書は魔女狩りの基礎となる憲章といわれるものである。この教書がだされた背景には、ドイツで活動していた二人の異端審問官、ハインリヒ・クレーマー(インスティトリス) Heinrich Kraemer (Institoris)ヤーコプ・シュプレンガー Jakob Sprenger に対する、地元の聖職者・世俗の役人の抵抗があった。すなわち、この教書を公布することによって、二人の異端審問官の権限を強化しようとしたのであった。(2)地元の抵抗があったことは、教書の中においても明示されているが、さらにこの教書公布後も、抵抗は存在した。例えば、大司教のヨーハン・フォン・バーデン Johann von Baden が統治していた聖界諸侯領トリール Trierでは、教皇が彼に対し、魔術師の徒の探索を怠っているとたびたび非難してきたが、彼は色々調査した結果、トリールにはそのような者は一人も存在していないと確信している、と返答を送っていた。また、チロル Tirol とザルツブルク Salzburg では、教皇の教書 の指示にしたがって、はじめはインスティトリスらにその活動を認めていたが、まもなく、インスブリュック Innsbruck の裁判は、 審問官によって告発された女性たちを拷問および処刑することを拒絶し、彼女たちを釈放してしまった。(3)

インスティトリスらは、なぜこのような抵抗に出会ったのであろう。一つには、異端審問官がやってくることにより、地元の聖職者・世俗の役人が自分たちの権限が侵害されることを恐れたため、ということが挙げられ得る。このことは、異端審問が成立した当初の状況と似ている。(4)

しかし、何よりも重要なのは、インスティトリスらが取り締まろうとしていたその対象が、地元の聖職者・世俗の役人の理解枠を越えていたからこそ、抵抗が起こったのではないだろうか。つまり、その対象のイメージが以前から存在していたものではなかったために、インスティトリスらの活動は受け入れられなかったのではないだろうか。

教皇インノケンティウス8世の教書は、こざかしい人々がその存在を認めないという魔術師の徒の状態をことこまかく描写しているが、それは教皇がインスティトリスらから新たに入手した報告にもとづくものである。しかし、その内容は、それ以前のいわゆる悪魔的なイメージ──すなわち、悪魔崇拝・秘密の集会・飛行など──とは、異なった特徴がみられる。つまり、この教書には、以前は異端的なものとしては取り上げられることのなかった、民衆の呪術概念がはっきりと描かれているのである。ここにおいて、迫害の関心が“背教”ではなく“妖術”となっていることがわかる。さらに重要なことに、「魔女教書」といわれるにもかかわらず、「男女を問わず」というように、女性のみについて述べられているわけではない。もっとも、この教書では、民衆の呪術概念による妖術が異端として定義されているけれども、その構成要素についてはっきりと定義している箇所はない。(5)それは先の二人の異端審問官によってかかれた『魔女の槌』のなかで、詳しく述べられることとなる。

2.『魔女の槌』

『魔女の槌』は、1486年、ストラスブール Strasbourg で初めて印刷されたという。(6)著者は、ハインリヒ・クレーマー(インスティトリス)とヤーコプ・シュプレンガー、つまり、インノケンティウス8世の教書が差し向けられた二人の異端審問官である。しかし、実質的な著者は、インスティトリス一人であったようである。

『魔女の槌』の目的は、妖術の実在に反対するすべての意見を論駁することにあった。著者の主張するところによると、魔女に対していわれている罪の多くは、客観的にみても現実であり、その他のものは、幻であるが、その幻は悪魔によって引き起こされる幻なのであった。そして、『魔女の槌』は、異端のなかでももっとも忌まわしいものとして妖術を定義し、その四つの重要な特徴をあげている。すなわち、1.キリスト教信仰の否認 2.洗礼前の幼児を悪魔に捧げること 3.身も心も悪に捧げること 4.インキュバスとの性的関係、である。(7)

魔女は、悪魔と契約を結ぶかあるいは悪魔と儀式的な性的交わりを結ぶことにより、悪魔に仕える者となり、忠誠を尽くすことになる。例えば、呪文を使い悪魔による幻によって変身する。マレフィキウムを行なったり、悪霊の力で空を飛んで移動し、不道徳な儀式においてはキリスト教の秘蹟を用いる。さらに、自分たち自身の、あるいは他人の子供を料理して喰う。そして、その子供の肉や骨を使って、軟膏を作る。それを魔術の作業に用いるためである。(8)

もっとも、以上の諸概念は、インスティトリスの独創ではない。それらは、彼の時代にすでによく知られていた要素を彼が手直ししてまとめたものにすぎない。しかし、以前の考え方と比べてみて、異なる点もみられる。それは『魔女の槌』の新しさでもある。

まず挙げられるのが、妖術に重点がおかれていることである。『魔女の槌』以前に行なわれた、悪魔的なものが問題とされた裁判でも、妖術が出なかったわけではない。しかしそれよりも“背教”の概念が重要視されていたのである。ところが『魔女の槌』の内容、とくに第二部をみてみると、人を性的無能や不妊症にする方法、男からその性器を奪い取る方法、人間を獣に変える方法、嵐や雷や雹によって人畜に被害を与える方法……というように、背教というよりはむしろ、妖術に重点がおかれていることがわかる。(9)このことはインノケンティウス8世の教書においても同様である。

しかし、さらに注目されることは、追求対象として、女性に的が絞られていることである。インノケンティウス8世の教書からもみてとれるように『魔女の槌』以前は、悪魔的なものが絡んだことがらにおいて、女性のみが問題とされることはなかった。もっとも、女性に対する伝統的な蔑視がなかったわけではない。キリスト教では、女性は男性よりも劣るものとして、常に論じられてきた。しかし、実際に(贖罪ではなく、死をもってなされる)迫害の対象として女性が強調されるのは、『魔女の槌』の誕生以後である。

実際『魔女の槌』では、様々な女性について言及されている。例えば、敬虔な尼僧は疑わしい。悪魔にとってそのような聖女を誘惑することは名誉であるからだ。生きのいい娘も悪魔は逃さない。恋人に捨てられ悲嘆に暮れている少女は誘惑しやすい。教会にめったに顔をださない女は疑わしいが、しげく通う女は偽装の恐れがあるのでもっと疑わしい。(10)

以上のように、『魔女の槌』には、それ以前とは異なった、新たな特徴がみられるのであるが、そのことは、逆に、奇妙な点ともいえるのである。

3.『魔女の槌』による、魔女=女性イメージの確立

まず、なぜ、とりわけ女性が迫害対象として取り上げられることになったのであろうか。この点から考える場合、インスティトリスらの個人的背景について見る必要がある。それは、マリア崇拝である。

マリア崇拝(11)

マリア崇拝とは12世紀よりヨーロッパに広まったものであるが、それはまず11世紀から、修道士や聖職者のあいだでおこりはじめ、熱心にマリアに祈り、罪を告白し、詩でほめたたえ、マリアの神秘を瞑想するようになる。この時代から、マリアに捧げられた祈祷集がさかんに編まれるようになる。

マリアは、その「処女にして母」という処女性により、宗教生活のモデルとなった。イヴが処女性の消失により楽園を追放されたのなら、マリアはその処女性によって勝利を獲得する。すなわち、原罪を犯したことによる二重の罰からの自由  妊娠出産の苦痛という罰からの自由、社会での男への服従という罰からの自由をマリアは有するのである。初期中世から盛期中世にかけて、修道院の模範となったものは、このような性の穢れからまぬがれた処女=純潔性を、魂の救いの前提条件としていたのである。

12世紀以降、一般信徒にもマリア崇拝が大きく広まっていく。男女の一般信徒が、マリアに病いや困窮から救ってくれるよう、さかんに祈りをささげるようになった。マリアにささげられる教会がふえ、マリアの奇跡譚も多数、収集されて広まり、またマリアに関する祭りが盛んに行なわれ、マリアを彫った彫刻や絵画が各地の教会をかざるようになる。

12世紀以降は、処女マリアのイメージが広く愛好されだしたのであるが、11世紀以前では、キリスト教における女性の位置はほとんどもっぱら、悪と淫乱の権化であるイヴの像であった。イヴにみられる女性忌避、女性恐怖の念は、「創世記」に始まる。そこでは、イヴこそ楽園からの追放にいたらしめた主犯であり、人類全体に苦悩・労苦・死をもたらした張本人であるとして、イヴが責められている。このような「創世記」の記述を典拠として、古代末期のキリスト教の教父たちが女性蔑視のイデオロギーと言説をつくりあげ、イヴこそ呪われるべき女性のモデルであるということになる。女性をイヴの末裔とする女性蔑視の言説は、初期中世から中世末期までの聖職者や修道士らに伝達受容されていった。

インスティトリスとシュプレンガーは、熱烈なマリア崇拝者だった(とくにシュプレンガーは、聖母マリアの幻をみたといわれている)。(12)その一方で女性蔑視の伝統をになう聖職者でもあった。マリア崇拝は、処女聖母マリアが現実の母とまったく相応し得ない男性の精神の産物であるため、それだけいっそう現実の女性に対する蔑視が強化されることになる。実際、『魔女の槌』は、女性に対する蔑視で満ちているのだが、その本の題名からすでに、それは現われている。つまり、女性形の “maleficarum” という語(男性形の “maleficorum” に代わって)が、すでに本来のターゲットがなんであるかを指し示している。 (13)しかし、とりわけ第一部の問6において、なぜ女性が問題となるのかということに関して多く語られている。

そこでは、女性が男性より迷信にしばられることについて、三つの理由が挙げられている。それによると第一に、女性の方が軽信であるため、悪霊はとりわけ信仰を堕落させようとするときに真っ先に女性を攻撃するからであり、第二に、女性はもともと男性より感受性がつよく、別の霊の啓示を受けやすいためであり、第三に、女性は弱いので、まじないによって密かにもっと簡単に復讐する方法を探しているからである、という。(14)

名前からも劣っていることが示されている。すなわち、“femina(女性)”という語は、fe=fides(信仰)とminus(より少ない) という語の複合語として解される。よって本質的に男性より早く信仰を疑うとともに信仰に背くという悪い女性は、sorcieres (妖術師 sorcier の女性形複数)について基礎となるのだという。(15)

また女性の肉欲についても語られ、そこから人間の生活にとって数えきれないほど多くの悪が生じることを論証している。その結論として、すべての妖術は肉欲の情から生じるが、一方、肉欲の情に女性は貪欲であり、自分たちの情熱を満たすために、女性は悪霊と戯れるのである、とされている。(16)

こうしたことから、sorciers(妖術師 sorcier の男性形複数。 ここでは男女をあわせた総称)の間で、男性より女性の方が多いことは、まったく驚くべきことではないとされ、したがってこの異端は、sorciers と呼ばれるのではなく、《sorci res》と呼ばれる、ということになる。(17)

※ここでひとつ注意しておきたい。通常、sorciere は“魔女” と訳されるが、この文章では、sorciere とは単に“女の”sorcierを表わしているとみなされるべきであろう。すなわち、単に性別を明らかにする以外、意味はなかったと思われる。ところが、後世にはこの語が“魔女”という特定の意味をもつようになる。このような観点から、以下ではあえて sorciere を“魔女”と訳さず、(仏訳の)原語のまま、記すことにする。

以上のような女性蔑視観は、聖書、教父、ローマの著作家などを引用しつつ展開されており、従って、従来のあらゆる女性蔑視・嫌悪の集大成になっているともいえる。

要するに、『魔女の槌』において女性が問題となっている背景に はこのキリスト教において伝統的な女性蔑視観があるといえよう。しかし、ここにおいて疑問が生じる。伝統的に女性蔑視観が存在するなら、なぜ『魔女の槌』以前に、女性迫害の動きが起こらなかったのであろうか。この疑問を解く鍵として、妖術に対する教会の見解の変化が挙げられる。

妖術に対する教会の見解の変化

一章でもみたように、中世を通じて教会は民衆の呪術概念を否定してきた。しかし、民衆の側では、その呪術概念は消えることなく持続し、例えば、マレフィキウムを行なったと思われる者に対して私的復讐が行なわれることもあった。9世紀にはリヨン Lyon の大司教アゴバール Agobard は、嵐、激しい雹、家畜の伝染病などが妖術師によって引き起こされると信じている人々に断固反駁した。 (18)彼は、農民によって嵐をおこす者とみなされ、捕らえられた四人のよそ者──三人の男と一人の女──を農民のリンチから救い出している。1279年にも、アルザス Alsace のルーファッハでは、ある修道女がマレフィキウムを行なうためにロウ人形を使ったと疑われ、農民に火あぶりに火あぶりにされそうになったのを、その地域の修道士たちが救い出している。(19)

このように、民衆からの突き上げに対し、教会はそれを抑えようとする態度をとっていた背景には、以前から教会が民衆の呪術概念を否定してきたということが挙げられる。しかし、こうした教会の否定も弱まりつつあった。その好例が、ディアーナ信仰に対する見解の変化である。『司教法令集』やブルヒャルトの贖罪規定にみられるように、ディアーナとともに夜、空を飛んでさまよう集団に対する民間信仰を教会は否定していた。しかし、15世紀に入るとその見解は変容する。すなわち、確かに“ディアーナ”との放浪は幻であるが、“悪霊”との放浪は現実であるという見解が出されるようになるのである。こうして民衆の呪術概念は、背教を伴うものとして重大な罪と考えられるようになる。(20)

『魔女の槌』では、このような民衆の呪術概念に対する見解の変化を受け、それが現実のもの・実害を与えるものだという考えのもと、sorcieres が重罪とされる理由が述べられている。

まず、これまでの宗教上の罪 peche と比べるなら、自覚的な悪 意から信仰と信仰の秘跡を sorcieres は無視するため、無知から生じる peche より、その peche は重い。(21)すなわち、sorcieres は贖罪による教化対象ではないことが明らかとなる。この sorcieresの“自覚的な悪意”はユダヤ人や異教徒との比較でも語られる。

ユダヤ人や異教徒と比べるなら、sorcieres は福音の信仰を述べるが、信仰に背き信仰を歪めるという異端者であるため、ユダヤ人や異教徒以上に重罪を犯しているのである(ユダヤ人は実際、モーゼの律法によりキリスト教信仰の形を受容しているが、それを悪と解釈することで歪めており、異教徒は信仰を受容していないため、そういうことはしない、と述べられている)。(22)

ルシファー Lucifer の peche 以後、 sorcieres の peche は、他のすべての peche にまさるともいわれる。というのもひとつに は、sorcieres がキリストを否認するからという醜悪さのため、もうひとつには、sorcieres が悪霊との肉欲というけがれに身を委ねるからという性癖の重大さのため、さらには、人間と獣畜の魂と肉体を害して、あふれんばかりの心からの悪意に熱中することで明らかにされる心を失った状態によって、である。(23)

魔術師や占い師と比べるなら、sorcieres が暗黙ではなく明白な契約を行ない、人間や獣畜、果実や土地を害するという点で、sorcieres とは比較にならない、という。(24)

こうして信教の背教(裏切り)であり、その人生すべてを peche とする異端の名で sorci res は示されることになる。(25)ここにおいて、妖術は背教と関連づけられ、実際に迫害を受けるものとなるのである。しかも、sorcieres については、その贖罪と信仰への復帰がいかなるものであれ、他の異端者のように唯一の終身刑に委ねられてはならず、むしろ極刑で罰せられるべきである、と結論が下されるのである。(26)

4.『魔女の槌』における“魔女”とは、何を意味したのか

前節では、『魔女の槌』以前に存在した女性蔑視観が、妖術に対する教会の対応の変化により、『魔女の槌』で一気に具体的な女性迫害に発展したことをみてきた。しかし実際には、女性蔑視と妖術とはどのように結びついたのであろうか。言い換えれば、なぜ『魔女の槌』において女性蔑視と妖術とが結びつくことになったのか。このことについて、本節では、その迫害対象となる女性のイメージが純粋に想像上のものではなく、ある“現実的存在”がもとになっているのではないだろうか、ということから、考察してみたい。そしてこの結果、『魔女の槌』における“魔女”とは、何を意味したのかが、明らかにされると思われる。

この点から考える場合、思い出す必要があるのは、教皇インノケンティウス8世の教書および『魔女の槌』の内容が、著者たちの体験によっている、ということである。(27)もちろん教書や『魔女の槌』の内容をそのまますべて、現実にあったこととして信じるのは不可能である。その内容は、容疑者の自白から得られたのであるけれども、その自白が引き出される過程において拷問が使用されたため、容疑者が拷問者の意に添うように自白させられた可能性が非常に高い。しかし、だからといって、その自白がすべて捏造されたものだといいきってしまうのは、乱暴な意見であると思われる。つまり、拷問を受けるような者の存在=悪魔学的解釈を受けるような行為・言動を行なう者の存在は、現実ではないだろうか。

このことを理解するのに役立つ研究として、イタリアの歴史学者カルロ・ギンズブルグ Carlo Ginzburg『ベナンダンティ16-17世紀における悪魔崇拝と農耕儀礼』が挙げられる。(28)この研究 は、キリスト教の教化後も、イタリアのフリウーリ地方 Friuli の農民の生活の中で持続してきた「ベナンダンティ」という異教的民族信仰が、異端審問を通じて、審問官の考える悪魔崇拝へと変容していく過程を実証的に描いたものである。注目されるのは、その異端審問では拷問が使用されなかったことである。そのため、裁判記録には、審問官と被告との偽造のない会話のやりとりを知ることができる。『ベナンダンティ──』では、異端審問官が自分たちの理解の枠にはない、「ベナンダンティ」の概念を、なんとかその枠に当てはめようとする様子が描かれている。いいかえれば、審問官たちには、農民たちの概念が理解できなかった。そのため、その理解できないものを、自分たちが理解していたもので“置き換え”ようとしていたのである。その結果として、「ベナンダンティ」の概念は、「魔術師」の概念に変えられてしまい、異教的民族信仰が悪魔崇拝へと変容することになる。(29)

この『ベナンダンティ──』の考えを『魔女の槌』に当てはめた場合、著者インスティトリスらがその概念を押しつけようとした何らかの存在、すなわち、非キリスト教的あるいは反キリスト教的な存在があったと考えられる。そのような存在として浮かんでくるのが、「賢女」である。

賢女とは、どのような存在であるかというと、例えば、薬草集めの女であり、出産の時に助けてくれる隣人の女性であり、大家族や親族に病気が生じたときに頼りとなる母・祖母である。手をかざして病気を治したり、悪の魔術を防ぐお守りやその他の手段を講じ、そのうえ多くの者は、占いや愛の魔術も取り扱った。全般的にみて賢女とは、実際の経験から直観と多くの呪文によって生活のさまざまな場面やいろいろな苦境に際して、忠告を与える術を心得ていた老婆、とくに具体的には、「産婆」をさすとみてよいだろう。(30)

民衆の生活にとって身近な存在であったこれらの女性は、その不可思議な知識や能力を身につけているために、敬われる存在であるとともに、恐れられる存在でもありえた。なぜなら、病気を治したりできるのなら、逆に病気や災いを引き起こしたりもできるだろうと考えられたからである。(31)

実際『魔女の槌』では、とりわけ、このような産婆の存在に対して言及されている。例えば、第一部の問11では、次のように述べられている。

「産婆以上にカトリック信仰を傷つける者はいない。実際、子供を殺さない時は、別の意図にしたがって、子供を部屋の外に運びだし、空中に持ち上げて悪霊に捧げるのである。」(32)

この行為については、第二部の13章で具体的に語られている。

「子供を殺さない場合、sorciere は冒涜的な犠牲として悪霊に 子供を捧げる。子供が生まれるとすぐに(もし母親自身がsorciereでないのなら)産婆は、子供を温めるという理由で、部屋の外に子供を運びだす。それから腕に抱き上げ、sorciere は子供を、悪霊の王であるルシファーと他の悪霊に捧げるのである。以上のことはすべて、台所で、暖炉の上でなされる。」 (33)

この文章は、産婆の技術(ひいては、民衆の文化ともいえるだろう)に対して、いわゆるエリート(インスティトリスらを含めた、聖職者)の反感・誤解があったことを暗示させる。すなわち、暖炉の上で子供を暖めるという行為は、単なる暖める行為とは理解されなかった、あるいはその行為以上のもの──つまり、悪魔へのいけにえ──とみなされたのだった。そのため、産婆はエリートの敵意を買い、その技術に対して悪魔学的解釈がなされることとなる。

以上のように考えた場合、『魔女の槌』における“魔女”とは、民衆の文化をそのまま受容することの出来なかったエリートから見た民衆文化、すなわち、自分たちの理解枠にはないものを、自分たちの理解していた要素で置き換え説明した結果、生まれたものといえるのではないだろうか。つまり、民衆の呪術概念を、幻想として否定できるうちはよかったが、15世紀の諸裁判にみられるような異端の増加に対する教会の危機感により、それが現実味を帯びてきたとき、もはやエリートは、自分たちが理解していた悪魔学によって解釈しなければ、その概念を受け入れることができなかったのである。言い換えるならば、『魔女の槌』における“魔女”とは、純粋に想像上のものではなく、民衆の文化・概念が、エリートというフィルターに通された結果、生まれたものといえるのではないだろうか。

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