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『魔女誕生』:第二章 迫害を受けた人々、いわゆる異端の魔女的要素と性

1. 異端に対する迫害

魔女のイメージには、民衆の呪術概念の要素に加え、キリスト教的要素として、もともと異教・異端といった非キリスト教・反キリスト教的存在に対して向けられた非難が存在すると思われる。具体的には、次のようなものがあげられる。

  • 子供殺し
  • 悪魔崇拝
  • 秘密の集会
  • 集会での性的乱交
  • キリストの否認、神への冒涜

このような非難は、古くはキリスト教成立初期そして特に2世紀ごろにキリスト教徒自身に向けられたものであった。それは動物崇拝(ロバ)、食人、近親相姦といったものである。(1)こうした非難はキリスト教徒の習慣に対する誤解から生じたと考えられるが、(2)いずれにせよ、このような非難に対して、キリスト教の教父たちは反論しなければならなかった。しかしアウグスティヌスからは、キリスト教徒自身も異端宗派に同じ非難を投げ付け始めるようになる。(3)

しかし、キリスト教徒に対する非難にせよ、異端宗派に対する非難にせよ、その非難が特定の性に対して向けられていた、ということはなかったようである。もっとも、この時点では、非難された人々が具体的にはどのような人々であったか、明らかではない。

11世紀になると、同じような非難が再びあらわれ始める。それはまず1022年のオルレアンで火刑にされた異端についていわれた。同時代の年代記作家である、アデマール・ド・シャバンヌ Ademar de Chabannes によると、この異端者たちは、異常な力、おそらく魔術的な力をもつといったある農夫にだまされ、死んだ幼児たちの灰をたべて、その農夫の宗派に縛り付けられたのであった。そしてひとたび入信すると、悪魔が、ある時は黒人として、またある時は光の天使として、彼等の前に姿を現わすようになり、そのたびごとに多額の金を与えた。そのかわり、悪魔は彼等に、キリスト教徒を装いつつも、心のなかでキリストを否定するように要求し、また、秘かにあらゆる種類の悪徳にふけるように教えたのであった。(4)

この異端は、オルレアンの聖堂参事会管理教会の司教座聖堂参事会員から成り、貴族の俗人、修道女、その他の夫人、さらには王妃の聴罪司祭もいる、敬虔な人々であった。

1231年には、最初の公式の異端審問官マールブルクのコンラート Konrad von Marburg 、そして非公認の審問官コンラート・トルソ ー Konrad Trousseau とヨハネス Johannes らの異端撲滅活動がおこった。(5)

これらの審問官たちは、農民と市民、聖職者と騎士を無差別に裁いていった。告発された者は、考えたり抗弁する時間を与えられずに、即座に有罪を宣告され処刑された。コンラートらの活動に衝撃を受けた聖職者たちから自制を求める動きも起こったが、最後にはこれら審問官の死とともに、異端撲滅運動は終わりを迎えた。その後、諸年代記に、そのような異端についての報告事項は姿を見せなくなる。

しかし14世紀に入ると、再び、秘密の集会を開き、そこで近親相姦のオルギーにふけるなどの非難を受ける異端についての記述が現われだした。その中には、集会に参加していた人々についての情報を与えてくれるものがある。(6)

1387年、ピネローロ Pinerolo の周辺地域(コティエンヌ・アルプスのイタリア側の丘陵地帯)で聖フランチェスコの第三の修道会の一員である、アントニオ・ガロズナという宗教的俗人が捕らえられたのであるが、彼は、夜の集会について告白している。一口飲ませるだけで、人を永遠に宗派に繋ぎ止めることのできる飲み物の存在や、あかりが消された後、近親相姦的なオルギーが行なわれたことなどは、これまでも見られたイメージである。注目されるのは、参加者が職人や小商人──宿屋の主人、パン屋、靴直し、仕立屋、小間物商、果物商──から成っていて、参加する人数は、十数人から四十人あるいはそれ以上まで、かなり変化し得て、いつでも、男も女も参加していた、という告白である。(7)

2. 14世紀における、新たな迫害

一方、14世紀初頭には、それまでの迫害とはやや性格を異にする迫害が出現する。以前の迫害は、主として宗教的な摩擦・排除を背景とした迫害であり、その中で、伝統的に用いられてきた非難が再度現われたのであった。ところが14世紀初頭には、政治的・社会的な背景から迫害が起こり、そこに伝統的な非難がもちいられるようになる。その場合には、性別による区別は以前と同じく、見られない。しかし、実際に異端であるか否かが問題ではなく、いかに迫害対象を異端として排除するかが問題であった。それはまず、1307年の、テンプル騎士団 Order of Templars に対する異端審問から始まる。(8)

テンプル騎士団に対する異端審問は、時のフランス国王フィリップ4世 Philippe 4 により行なわれた。テンプル騎士団はもともと聖地巡礼の保護と聖墓防衛を目的として1119年に設立された修道会で、西欧全土に支部をもち、13世紀末には莫大な土地と富をもつ大財閥となった。当時、イギリスとの戦争により財政が窮乏していたフィリップ4世は、このテンプル騎士団の財産に目を付け、異端審問を行なうことで、テンプル騎士団の財産を奪おうとしたのであった。テンプル騎士団が行なったとされる行為としては、キリストの否定、悪魔崇拝、みだらな接吻、性的乱交、加入者をセクトにつなぎとめるための魔法の飲み物、子供殺しなどが挙げられる。

1320年頃にはライ病患者・ユダヤ人に対する迫害がおこる。(9)

基本的には、フランス国内のあらゆる井戸と泉に毒をいれて、キリスト教徒を皆殺しにしようという陰謀を両者及びイスラム教徒が企てたということによるのであった。このキリスト教世界覆滅の話は、まず、南フランスの都市パミエ Pamier で異端審問を受けたギョーム・アガッサ Guillaume Agassa の告白に始まる。アガッサはパミエにあるレスタン Lestang のライ病院の監督(院長)であった。1322年5月から7月にかけて数回供述した。それによると、集会では、あらためてキリスト教を否認するべく十字架や聖体に唾して足で踏み付け、加えて参会者は、秘密を守り決定を忠実に履行するよう誓約を求められ、その儀式がすんだ後、各人に小さな皮袋に詰めた毒薬が──焼いて粉末にした聖体、ヘビの頭、カエルの足、トカゲ、人糞、女の髪、黒く臭い液体などを混合した──配られたのであった。

以上から、異端的セクトに投げ掛けられた非難が、テンプル騎士団やライ病患者・ユダヤ人に対して用いられていることがわかる。しかし、ここでも特定の性について強調されている事実はない。

実際に迫害を受けていた人々は、一つには、カトリック信仰そのものに反対する異端者であり、他方、異端という嫌疑を与えられて政治的・社会的に排除されることになった人々であった。いずれにしても、問題となるのは、事実であろうとなかろうと“背教”であり、民衆の呪術概念でもなければ、性別でもなかったのである。

もっとも、単に贖罪をうけるだけの(従って異端ではない)民衆の呪術概念と、宗教上の罪である異端との区別は次第になくなっていた。15世紀前半には、これまでみてきたような非難に、民衆の呪術概念が加わりつつあったことが、二つの文書から見て取れる。

1409年に、アレクサンドル5世 Alexander 5 の大勅書が発せられた。その大勅書は、明らかに異端審問官から受け取った情報に基づいてかかれたのであるが、それによると、ジュネーヴ Geneve 、アオスタ Aosta 、タランテーズ Tarantasia の司教区、ドーフィネ Dauphine 、コムタ・ヴネサン Comtat Venaissin 、アヴィニョン市 Avignon 及びその司教区を含む広大な地域で、何人かのキリ スト教徒が、不実なユダヤ人とともに、反キリスト教的な新宗派や儀礼を秘かに設立して広めていたこと、そしてまた同地域には、悪魔崇拝、占い、悪魔の呼び出し、悪魔的呪文、迷信、邪悪で禁じられた術を行なうキリスト教徒・ユダヤ人がいて、数多くの純粋なキリスト教徒を堕落、腐敗させていた、ということなのであった。(10)

1435〜37年に、ドイツ人のドミニコ会士ヨーハン・ニーダー Johann Nider『フォルミカリウス』 Formicarius を書いた。(11)その第4巻は迷信、魔術、悪魔崇拝にさかれているのであるが、その編纂に際して、ニーダーは二人の情報提供者と何度も広汎に話をして得た情報を用いた。その二人とは、ベルン Bern 付近のジメンタール渓谷 Simmenthal のブランケンブルグ Blankenburg の領主ペーター・フォン・グレイエルツ Peter von Greyerz 判事と、リヨン Lyon 修道院の改革者である、エヴィアン Evian のドミニコ会士の異端審問官であり、彼等は実際に、数多くの裁判をてがけていた。

病気や死をもたらす妖術から、愛を手に入れる妖術にまで及ぶ、いわゆる伝統的妖術の普及についてニーダーは多くを語っている。しかし、中世の贖罪説教文学にみられる、孤立した妖術師・魔法使いのイメージとはまったく異なった、まだ未知の妖術師等の宗派のイメージも現われている。

ニーダーは、先の二人の情報提供者から、人間よりも狼に似ていて、子供をむさぼり食う男女の妖術師たちが存在する事実を聞き出した。そして、これらの者たちが行なうことは、集会を催して悪魔を呼び出し、キリストと信仰を放棄し、十字架を冒涜し、子供を殺し、そして埋葬されたその死体を掘り起こしてそれを用いて魔術的軟膏・液体をつくることであった。

以上の二つの文書から、民衆の呪術概念と異端的な非難を合わせもった存在が知られていたことが見て取れる。しかし、ここでもその性については特定されていない。

15世紀前半では、まだ魔女のイメージ・存在は、確固たるものではなく、従って、魔女=女性というイメージも確立されていなかった(ニーダーでは、男女の妖術師たちと表現されている)。魔女というものが当時はっきり認識されていなかったことは、同時期に起こった、ジャンヌ・ダルク Jeanne d'Arc の処刑裁判(1431年1月9日〜5月30日)から例証される。(12)

ジャンヌの裁判記録を調べると、ジャンヌが受けた嫌疑は、1431年3月27〜28日に提示朗読された告訴状の前文に、よくあらわされている。(13)そこでは、先のアレクサンドル5世の大勅書にみられたような魔女的要素がみられる(悪魔崇拝、占い、悪魔の呼び出し、悪魔的呪文、迷信、邪悪で禁じられた術)。子供殺しや集会を催すということについては言われていないが、異端者に対して与えられた伝統的な非難がジャンヌに対して与えられていることがわかる。しかし、これらとは別に、民衆の呪術的概念もジャンヌの裁判にあらわれている。前文の後、告訴状の内容をなす、被告を弾劾する諸箇条(七十箇条の検事論告)のなかにそれは見られる。(14)

ジャンヌの裁判は、以上のように、魔女的な要素を多く含んだ裁判であった。そして俗に、ジャンヌは魔女として裁かれたといわれる。しかし実際には、“異端者”として扱われた。最終判決では、“分派、偶像崇拝、悪魔の祈祷、その他多くの悪業により、様々の過誤および様々の罪に堕ちていること”を宣告されたが、「魔女である」とは、いわれなかったのである。(15)

3. 15世紀前半の諸裁判にみられる事例から

15世紀に入ると、魔術的要素を含んだ諸裁判が起こるが、それらの裁判においても、特に女性が裁かれたのではなかった。

例えば、1428年、ヴァル・ダニヴィールとヴァル・デランスとして知られる、ローヌ川 Rhone の南の二つの河谷地域における諸裁判では、多くの男女が、キリスト教の信仰を否定し、そのお返しとして悪魔はマレフィキウムをおこなう力を授けたことが明らかとなった。1438年、ラ・トゥール・ドゥ・パン La Tour du Pin における裁判では、容疑者は、集会にいった仲間の者たちの名を自白したが(実際には、拷問により自白させられたのだが)、それらはほとんど男の名前であり、とくに司祭、聖職者、貴族と、富裕な人たちの名前であった。1459年、フランス北部、アラス Arras における裁判では、二人の教会当局者(司教ジャン Jean とジャック・デュ・ボワ Jacques du Bois)が容疑者を拷問にかけて、つぎつぎとサバトに出席した他の仲間達の名を引き出したことにより、身分性別関係なく、大多数の人々が巻き込まれ、都市機能が阻害されるまでに至る大事件に発展した。(16)

4. 15世紀前半まででいえること

ジャンヌの裁判では、民衆の呪術概念もみられるがそれはあくまで、“異端”の添え物にすぎなかった。つまり、“妖術師”としての強調があったわけではない。15世紀前半までの悪魔的裁判の焦点は、キリストの否定・悪魔崇拝という“背教”の概念であり、その集会では、子供が殺され、反道徳的な性的乱交が行なわれ、怪しげな魔法の飲み物が作られたのだった。しかし、これらのイメージは反キリスト教的な集団に対して──実際に反キリスト教的(むしろ反カトリック的)な異端セクトはもちろん、テンプル騎士団のように故意に異端を押しつけられたものも含めて──伝統的に投げ掛けられた非難であった。

そして、そうした非難を与える作業は、一定の型通りに、半ば自動的に行なわれてきたといえる。つまり、実際に非難内容を行なっていたかどうかにかかわらず、迫害対象とされれば、その時から、半ば決まり文句としてそうした非難が与えられるのであった。もっとも、迫害の対象となったものが、非難を受ける“スキ(誤解)”をもっていた可能性は否定できない(例えば、初期キリスト教は聖体に対する誤解を受けた)。つまりなんらかの誤解を受け、それを誇張されて非難されたという可能性は残る。さらに、その誤解以外の非難が、後から自動的に投げ掛けられたとも推定される。その迫害対象となるのが異教・異端であり、あるいは政治的・社会的利害関係に巻き込まれたものであった。

将来には、新たな決まり文句が、単なる隣人同士の日常生活のもめごとに利用されることになる。もちろん、“魔女”である。しかし、15世紀前半までは、そのイメージはできていなかった。そのことは結局、性別の問題から確かめられる。これまでみてきた裁判では、以後の魔女狩りに特徴的であった、被告の性別による差はみられない。(17)15世紀前半までの裁判では、とくに女性に非難が集中しているわけではなく、1438年のラ・トゥール・ドゥ・パンにおける裁判では、むしろ被告はほとんど男であった。また、民衆の呪術概念もあまり強調されていなかった。

キリスト教世界に害悪をもたらす女性という後世の魔女のイメージは、1486年に出た『魔女の槌』で、初めて現われるのである。

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